僕は小学生の頃、女の子に憧れてました。
というのも、誰か特定の女の子に想いを寄せていたとかではなく、女の子みたいになりたいと思っていました。
別に「体は男、心は女」とかそーいうんじゃなくて、もっと単純というか、軽い気持ちでのことです。夜な夜な鏡を見ながら、もしかしたら自分は女の子に見えるんじゃないか、女の子として通るんじゃないかと、なよなよしてました。まぁもって生まれた顔はどうにもなりませんでしたが。
大学生の今ではふつーに男として生きてますし、それに違和感を感じることもまったくありません(当時も違和感なんてありませんでしたが)。オシャレもまったくしませんから、僕の見た目に女性的な要素をみつけることなんて、四葉のクローバーを見つけることより難しいはずです(見つけられたなら、多分クローバーのそれ以上の幸福が訪れるでしょう)。体は華奢に過ぎますが。
ただ、女性的でありたいとは思っているのです。しなやかかつしたたかでいたいと。気持ち悪い話ですが、僕は他に「かっこいい」と言われるよりも、「かわいい」と言われた方が嬉しいのです。かわいいさというものは存在の絶対的な肯定だとすら思っているからです(参考文献:ばらスィー著『苺ましまろ』)。
僕は何故これほど女性や女性的(女性的とか男性的って言い方はもう廃れてるとは思いますが)なるものに憧れているのでしょうか。それは多分どこかで僕が、女性は男性よりも優位にあると思っているからなのでしょう。僕がフェミニズムに共感するところがあるのは、その点に因るものるだと思います(ただある種のフェミニズムには男性社会での女性地位を高めていこうとする論調があって、それは逆説的に男性性をおびることになります。そこにはまったく共感しません)。
男性は女性に対し、社会的・身体的暴力しか与えられませんが、女性は男性に、存在そのものへの暴力を行使できるのだと思います(これは単に僕の実感でしかないのですが)。その点で、僕は女性が男性よりも優位なのだと思うのです。
存在そのものへの暴力というのはどういうことでしょうか。例えば性行為の場合、女性は男性に「下手」と言うだけで勝利します。これはもう圧勝です。純粋に性行為だけを考えれば、男性は孫悟空みたいに、女性の手の内でわやわやしてるに過ぎないわけです。男性はセックスにおいても社会や身体を通じてしか反撃できません。存在そのものに致命傷を与えることができないのです。
僕は、男性は社会的に優位で、女性は個的に優位なのだと思います。僕は社会的に優位であるよりも、個的に優位であるほうが、遥かに強いことなのだと思うわけです。
フェミニストは皆アベサダにのように、陰茎を切り落とすことから始めたらいいんじゃないでしょうか。